彼岸の日にこんなことを考えました。

ウィルスミス主演の「I AM LEGEND」という2007年公開の映画がある。
そのオープニングで、細菌が蔓延し人類がほぼ死滅したあとの「死の町」となった
ニューヨークを野生動物が闊歩しているというシーンがあり、今までは
「まぁSFのことだからねぇ」とさほど気にしていなかった。

しかしこの記事の写真を見ると、福島の原発近くの街はそうなっているんですね・・・。
無断転載禁止ってあるのでリンクのURLを以下に記しておきますが、
人間のいない「死の町」を家畜が堂々と闊歩する姿に、私はものすごい違和感と
SFの世界が現実化してしまったことに、身の毛がよだつほどの恐怖を感じています。


そして地図を見る度に、ここには行けない。立ち入れないんだという事実が、
何かこう、自分の体の一部をもぎ取られてしまったような「喪失感」を覚えるのです。
日本の地図を見る度に、ここは日本の領土なのだけれど、私は日本人だけれど、
日本人の私を含む大人たちせいで、立ち入ることができなくなってしまった。
という懺悔の気持ちも地図を見る度に感じるのです。

私は、例えば鉱山の跡地のように「捨てられた街」に興味があり、いろいろなところに
行ってきましたが、そこを訪れるとある種「正しく葬られた」場所であった気がするのです。
つまり閉山だよ、引っ越すよ、さぁもうお別れだよという儀式があって、つまりその土地と
そこで暮らして来た人々とのお別れの儀式のようなものが執り行なわれてから、人々は
その地を離れて行った、そんな空気を感じるのです。そしてその後も昔を思い出して訪れる
人々の存在が、結果としてその土地の「供養」になっている、と。

しかし原発周辺地域の人々は分けもわからず避難させられ、愛着ある土地ときちんとした
別れの儀式をすることなく去らなければならなかった。村の神社のご神体。
お墓に眠るご先祖様。そして井戸や森など村の至る所にいる八百万の神
全部そのまま放ったらかしのままである。何と罰当たりなことだろうか。
ふるさとに帰れないというのは、このような精神的な、使いたくない言葉だがボキャ貧なので
使うが、そんな「スピリチュアル」な部分の補償は、例え札束を積まれても不可能であろう。

そんな土地が私たちの国にできてしまったこと。そしてそれが何も変わらないようにキラキラ
した生活を送っている東京から比較的すぐ近くに存在することに、強烈な違和感というか、
申し訳なさというか、恐怖というか、そんな感情が澱のように私の心の底に沈殿しています。

立ち入り禁止区域の神々はきっとお怒りだろう。東電を祟るのか?保安員か?
はたまた政府か?いやそれとも彼の地を犠牲にしたきた東京を祟るのか?