20年前の岩泉線

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

田老の現地研究は、田老の民宿に泊まって昭和七年の三陸津波の生存者から
津波の話を聞くというもの。津波で大けがをし、膝から下の部分が皮一枚で
つながった状態の母親を、板の上に乗せ、山を越えて宮古まで
運ぼうとしたのだけれど・・・という話を今でも思い出す。

今、険しいリアス海岸を隔てる山には鉄道トンネルが穿たれ、
尾根を削り谷を鉄橋でまたぐ、整備された国道が宮古までの快適な旅を約束してくれる。
今年の夏、その国道を快走しながら、70数年前の悲劇に思いを馳せた。

さてその時撮影した写真をスキャナーで取り込んであったのでご紹介する。
確か現地研究には急行八甲田で入ろうとしたのだけれど、H先輩からの
呼び出しを受けた。「愛知からKさんが上京する。俺は飲み会に参加する。
サークルは構成員の自由な意志で構成されるものである。であるから、
この飲み会に参加するかしないかは、君の自由な意志だ。」
という脅迫電話(笑)がかかって来て、結局八甲田はあきらめ、
三軒茶屋の先輩宅に泊まり、翌朝始発の新玉川線に乗って新幹線で新花巻?
から遠野、釜石と回って宮古についたようだ。

一枚目は宮古で撮影した、冬の日差しを浴びてやってきたキハ52
背景が面白くないので望遠でごまかしていますね。うまい処理じゃないか、若き日の私!!
日付は1989年11月20日となっています。

二枚目は現地研究が終わってから個人で行った岩泉線岩泉駅。1989年11月22日のもの。
(北海寮のSも居たような気もするが・・・)
前回の記事の写真とほぼ同じアングルです。駅舎は変わらず、
変わったのはディーゼルカーと私の体型(笑)?

三枚目はその時にどうしても走行写真が撮りたくて、岩泉駅から
少し歩いて陸橋だったかな?から撮ったもの。曇っていたので紅葉
が今一つ映えませんが、冬の夕方の空気をお感じいただければ幸いです。